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"失注"に向き合う部品工場 生き残るためつないできた力

2026.02.19

トヨタの工場の歩みと、未来への挑戦を紹介する連載「トヨタ工場の継承と進化」。今回は、足回り部品と小物部品のサブアッシーを集中生産する機械工場として誕生し、熾烈な競争にさらされてきた三好工場の歩みをたどる。

トヨタ車の部品を、トヨタの工場でつくれなくなる――。

にわかに理解しがたい話だが、実際に起きたことだ。1968年の操業開始以来、工場の存続をかけ、なりふり構わず闘い抜いてきた三好工場(愛知県みよし市)。その歩みをたどろう。

最新設備の部品工場が誕生

1950年代半ばから70年代初頭にかけて、世界に類例を見ない高度経済成長を遂げた日本。国民の所得も上昇し、個人消費が急速に拡大した。

「三種の神器」と言われた白黒テレビ、冷蔵庫、電気洗濯機の普及がひと段落すると、1960年代には「新・三種の神器/3C(クーラー、カラーテレビ、カー)」と呼ばれる大型耐久消費財がもてはやされるように。その一角を占めた自動車は大衆の願望の的となった。

65年に名神高速道路、69年に東名高速道路が全線開通。自営業、勤労世帯にも自動車が普及し、クルマは経済的価値を象徴するものから、誰でも気軽に乗り回すことのできる快適な道具へと変化した。

こうした自動車需要の急成長「モータリゼーション(自動車の大衆化)」を受けて、70年には乗用車の国内生産台数がおよそ318万台に。自動車メーカーにはいっそうの“量産化”が求められるようになった。

トヨタでは月産10万台達成を掲げ、乗用車専門工場の高岡工場、自動車性能試験場と乗用車組立工場を兼ね備えた東富士工場を設立するとともに、既設工場の専門工場化を推進。

役割を再定義する中で、新工場は乗用車足回り部品と小物部品のサブアッシーを集中生産することが決まった。

そのころ、みよし市の前身の三好町では農業以外の財源を確保するため、積極的に工場の誘致を進めており、トヨタへ約30万㎡の土地の申し込みが行われた。

用地は南北に細長く、静岡県にあった東富士工場を除く既設の4工場(本社、元町、上郷、高岡)とはいずれも10km以内の距離。各工場との連絡、部品の搬入出に便利な位置にあった。

三好町側の建設委員長を務めた町会議員の加藤付雄(つきお)さんの息子で、現在は三好工場の設備やオフィスの清掃を担う豊三工業の加藤公宣(ただのり)会長は、当時をこう振り返る。

豊三工業 加藤会長

三好町は農業が盛んで、今の工場の敷地も元々は畑でした。農家からは町の田園風景を損なうのではという意見がある一方で、農業以外の産業を誘致することは、町にとって大きな利点があったと思います。

豊三工業に飾られた三好工場建設前の周辺の航空写真

こうして生まれた三好工場の特徴は、当時では珍しい「一貫生産ライン」を採用していたことだ。

例えば、第1機械工場では、素形材受入→加工→組付→完成品発送場を順番に並べることで、運搬にかける時間と労力をカットした。

また、本社工場や元町工場にあった冷間鍛造*を三好工場の南工場(第2機械工場)へ集約。

*金属を加熱せず、常温(室温)で加工する技術

さらに、ボルトを量産するボルトメーカー、ナットやピストンピンをつくる冷間鍛造設備のコールドフォーマーなど、画期的な設備を約200台導入。

なかでも、コールドフォーマーは、1秒間におよそ3.3個の部品を生産するなど、当時としては圧倒的な速さを誇り、2023年まで、55年にわたって現役で稼働した。

三好工場の従業員が代々、技術を受け継ぎ、同工場の設備の中で最も長く稼働したコールドフォーマー。移管にあたっては、佐藤恒治社長も現場を訪れ「55年ありがとうございます」とメッセージを記した

三好工場の第一期工事の完成を伝えるトヨタの社内報「トヨタ新聞」(第765号)には、「最新鋭設備の部品工場 月産十万台体制固まる」と紹介されている。

トヨタ新聞 第765号 1968年7月6日
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