知的財産権を巡る争いは、企業や人から、膨大な時間とお金を奪っていく。データ保全サービスPCE(ピース)は、その紛争、訴訟の対応力強化のために生まれた。過去の苦い経験を含む開発背景や、今後の展望を聞いた。
「知財(知的財産権)に関する訴訟って不毛なんです。とくに大企業同士の戦いは、費用や関わる人の数が桁違いなため、ポジティブな要素を見出しづらい。本来、知的財産部の最大のミッションは付加価値をつくること。マイナスを減らすことではないはずなんです」。
そう語るのは、知的財産部時代にデータ保全サービス「PCE(ピース)」を企画し、商品化までこぎつけた山室直樹だ。
山室は過去、訴訟・係争*に備えた社内資料を有していたにもかかわらず、裁判では証拠資料として採用されない事案を幾度も経験した。その苦々しい経験から、この状況を何とかしたいと考えていた。
*当事者間同士での交渉段階に入っている事案
特許法には、「先使用権」という権利がある。他人が特許出願する前から、その発明をすでに事業として実施、またはその準備をしていた者が、一定の実施権を持つことができる制度だ。
しかし、その要件はとても厳しく、しっかりと書類を管理していても、裁判では証拠として認められないことが多いという。その書類や記録が「いつから存在していたのか?」「その証拠はあるのか?」ということを証明する必要があるからだ。
また、電子化が進んだことで改ざんが容易に疑われる時代にもなった。そのような危機感が「PCE(Proof Chain of Evidence」という新事業の立ち上げにつながった。
ブロックチェーン×タイムスタンプという発明
開発を始めるにあたり、山室は外部パートナー探しからスタートした。ブロックチェーン技術に詳しい、先進データサイエンス統括部から紹介されたのは、大手企業5社に加え、スタートアップのScalar(スカラー)社。最初の印象は正直、怪しいものだったという。
「誰かのコネで入ってきたのか? 詐欺じゃないか? そんな目で見ていました(笑)」(山室)
疑い深さは知的財産部の習性だそうだ。しかし、Scalar代表の深津 航氏がプレゼンを始めてから空気は一変したという。
先進データサイエンス統括部
DS基盤開発室長 山室 直樹
知財訴訟の現場を知るからこそわかる、少しいじわるな質問をぶつけたんです。すると、具体的な提案をソリューションレベルで返してきた。そのすべてが的確で、これは詐欺じゃなく本物だ、自分が間違ってた、と開始2~3分で思いました。
Scalar設立時から、信用できる電子ファイルの保存方法を常に考えてきた深津氏。当時のことをこう振り返る。
株式会社Scalar
代表取締役 CEO深津 航
ご提案する前に、世界中の判例を徹底的に調べたんです。すると、タイムスタンプ*が付いていないデータはことごとく却下されていた。また、日本のタイムスタンプは中国やEUでは証拠として認められない。つまり、電子データの存在証明には各国のタイムスタンプが必須だと。しかし、すべてのファイルに押していたら莫大なお金がかかってしまいます。
*ある出来事が起きた「日時」を記録するためのデータ。「2025-11-04 17:01:38」のように記録され、技術や法律の世界では重要な役割を果たす。
深津氏が考えたのは、boxやSharePointなどのストレージにファイルを置くと、そのハッシュ値(データの指紋)が自動で記録され、ブロックチェーン上に時系列で連結されていくという仕組み。
そのチェーンの終端に各国のタイムスタンプを付与すれば、「このデータはこの時刻に確かに存在し、以後の更新履歴も含め、改ざんされていない」ということを、運用費を抑えながら簡単・長期にグローバルで証明できるというものだ。
前職でブロックチェーン技術を使った新規事業開発をおこなっていた小林は、その発想に衝撃を受けトヨタへの転職を決めたという。
トヨタ自動車 先進データサイエンス統括部
DS基盤開発室 小林 真幸
ブロックチェーンと何かを組み合わせないと、ビジネスとしては成立しないとは思っていました。しかし、そこにタイムスタンプを活用する発想はまったくなかった。ブロックチェーン技術者は基本的にIT系の知識しかないので、知財のタイムスタンプという発想は生まれなかったんです。
こうして生まれたPCEだが、利用者は普段通りboxやSharePointにファイルを保存するだけである。
「PCEがあれば安心してオープンイノベーションに取り組める」
PCEの導入企業である住友ゴム工業で、先進技術・イノベーション研究センター長を務める岸本浩通フェローは、出会いをこう振り返る。
住友ゴム工業株式会社
研究開発本部 先進技術・イノベーション研究センター長
岸本 浩通 フェロー
話を聞いたとき、これはすごいシステムだと思いました。PCEがあれば、安心して社外に出ることができる。すぐに導入したいと考えました。
岸本氏がいう「社外に出る」とは、オープンイノベーションの現場を指す。いまや新しい技術やアイデアは、ひとつの会社だけで完結することができない。大学やベンチャー企業などと積極的に共創し、知見を掛け合わせることが必須になっている。
住友ゴム工業株式会社
岸本 浩通 フェロー
オープン戦略とクローズ戦略を明確に線引きすることが大切です。ベテラン社員であれば、ここまでは話して良い、ここからはダメだと判断できます。しかし、若手社員にそれを求めるのは難しく、ときに技術を流出させたと言われかねない。そこが怖いんです。
PCEがあれば、もし不用意に話してしまっても、当社がすでに持っている技術ですと証明することができる。安心して外でディスカッションできるわけです。
岸本氏はさらにこう強調する。
トラブルは、起こってからでは遅い。ひとたび訴訟になれば、時間もお金も桁違いに消耗する。いわば、PCEは保険料のようなものです。日本のものづくりを守るためにも、この投資は絶対に欠かせないと思います。
協業の面白さ。大企業とスタートアップはお互いを高められる
PCEの開発は、こういうものをつくってほしいと要件定義をしてから進める方式ではなかった。まずは「試験研究フェーズ」で進め、その後に「実装フェーズ」へと移行させたという。
そのようなチャレンジができたのは、誰もやっていない領域だったことが挙げられる。また、PCEチームが、試験研究をおこなう先進データサイエンス統括部に籍を移していたことも大きい。
株式会社Scalar
代表取締役 CEO深津 航
試験研究ではお互い新しいことにチャレンジし、そこで実現性を確認できたら、システムに落とし込むという進め方をしました。
日本では、システムの多くは企業から依頼されてつくります。でも、できあがるまでには時間がかかる。そうすると、納品される頃にはマーケットのニーズとズレたものになっていることも多々あります。
最適なツールを探しだし、その機能が足りていない場合は、アメリカのマイクロソフト本社などへ直接連絡した。「提案が通ったら、この機能を追加してほしい」と交渉していったという。
トヨタ自動車 山室 直樹
一般的に、大手企業は安全志向なので、実績のないものは使わない。でも、今回のプロジェクトは、先進的な技術やソフトを積極的に取り入れていこうと当初から考えていました。
トヨタ自動車 小林 真幸
Scalarさんは先進的なアプローチをしてくれるので、常に新しい発見があります。定例会も開発会議も感嘆してばかりですね。業界の新しい動向なども入ってきて、とてもありがたいです。
トヨタ自動車 新事業企画部 事業開発室 事業化1グループ
横井 友香
先日Scalar社のAI開発現場にお邪魔しましたが、画面を見ながら“ここのUIはこうしたいよね”と言ったら、15分後くらいにはそれが改修されていて驚きました。
Scalar社から出向している田中は、トヨタの風土をこう語る。
トヨタ自動車 先進データサイエンス統括部 DS基盤開発室
AICoEグループ 主幹 田中 学
トヨタでは新しい取り組みを進める際にも、常に「安全・品質・信頼」という軸が一貫して存在していると感じます。スタートアップやIT業界では、スピードを優先し、多少の不確実性を許容しながら走り出すことも多くあります。
トヨタは、スピードや効率だけでなく、社会的責任や持続性まで含めて考える姿勢に、モノづくり企業としての重みと覚悟を強く実感しています。
一方で、スピード感や思考の柔軟さも重要だと考えており、両者を融合し、「信頼を軸にしたスピード」をどう実現していくかが、今の私のチャレンジです。
データ社会の健全な成長に貢献したい
現在は、ドキュメントが主な保全の対象だが、今後は音声や動画データなどの大容量ファイルも保全できるように機能拡張予定だという。
トヨタ自動車 山室 直樹
企業が何かしらのAIを使う場合、追加でどんなデータを投入したのかを証明しないといけない時代がきます。そのデータをしっかりと管理していないと、何かあったときに大問題になってしまう。
すでにGDPR(EU一般データ保護規則)では、違反すると前年度の全世界売上の4%を取られることが決まっています。
住友ゴム工業の岸本氏もこの問題について触れており、AI時代のデータ管理は共通の課題であることがわかる。
トヨタ自動車 小林 真幸
PCEは、“データ社会の健全な成長に貢献する”ことを謳っています。自分たちのデータであることを証明できることで、開発者のモチベーションも上がり、協業など技術交流も盛んになっていく。そのためのインフラづくりに今後も貢献できればと思います。
トヨタ自動車 田中 学
パソコンにウイルス対策ソフトを入れるように、企業がデータを扱う際に必要な社会インフラになれたらと思っています。
トヨタ自動車 横井 友香
国内の争いを防ぐだけでなく、日本の知財を世界から守っていく。そこにトヨタがやる意義があるのかなと思っています。
最後に山室にも今後の展望や想いについて聞いてみた。
トヨタ自動車 山室 直樹
不毛な争いに時間を奪われるのではなく、価値創造に集中できる社会へ。大企業とスタートアップの連携は難しいと言われることもありますが、そんなことはない。スタートアップと本気で補い合えば、新しいものは必ず生まれる。PCEでそれを証明し続けたいと思います。