トヨタの各工場の歴史と、目指していく進化を紹介する連載シリーズ「トヨタ工場の継承と進化」。今回は"大衆車工場"として生まれた高岡工場の歴史を紹介。
戦後、1955年頃から70年代初頭にかけ、高度経済成長を遂げた日本。
1960年代に入ると「3C/新・三種の神器」と呼ばれる大衆消費財、カラーテレビ、クーラー、そしてカーが大衆の願望の的になり、自動車の販売台数が急増。
後に「マイカー元年」と呼ばれる1966年には初代カローラが誕生し、人々が自家用車を持つ時代の幕開けを支えた。
初代は発売から瞬く間に人気を博し、国内販売でトップを記録。低価格かつ長く乗り続けられる“大衆車”としての地位を築き、日本の「モータリゼーション(自動車の大衆化)」の立役者となった。
その後も初代発売から33年間、カローラは多くの新型を出しながら2001年まで年間販売台数1位を維持。以降も人気車種として愛され続けてきた。
今回は、そんなカローラの生産工場として生まれた高岡工場の歴史を紐解いていく。
クルマの大衆化を支えたともいえる工場は、どのような道のりを歩んできたのか。
前代未聞の「月産2万台」への挑戦
1966年9月、高岡工場はカローラ専門の乗用車工場として稼働を開始*。
*同年12月7日に完成式典を挙行
現在の愛知県の豊田市、みよし市、刈谷市の3地域にまたがる広大な生産拠点となった。
設立時に掲げられた生産目標は「月産2万台」。
同じ乗用車専門工場である元町工場(1959年操業開始)の当初目標は「月産5,000台」であり、高岡工場は当時のトヨタにとって前例のない挑戦となった。
車体プレスに溶接、塗装から組立までの全工程で、当時の最新設備を導入。加えて、生産管理に電算計算機(今で言うコンピューター)を取り入れたトヨタ初の工場にもなった。
工場内に中央コントロール室を設置。納入部品の在庫状況や設備の稼働状況などを集中管理していたという。
カローラは発売から販売台数を伸ばし続け、1969年に高岡工場の年間生産台数は40万台に達した。
高岡工場の設立時に副社長だった豊田英二は、後に当時をこう振り返っている。
カローラはモータリゼーションの波に乗ったという見方もあるが、私はカローラでモータリゼーションを起こそうと思い、実際に起こしたと思っている。
(中略)
うまくいったからこそ、いまごろのん気なことを言っていられるが、もし、モータリゼーションが起きていなければ、今ごろトヨタは過剰設備に悩まされていただろう。
出典:日本経済新聞社 豊田英二著『決断―私の履歴書』
操業開始当初は1ラインのみで稼働していた高岡工場だったが、カローラの需要が旺盛になるとともに生産が追い付かなくなり、1970年までに2ラインを増設。合計3ラインでの生産体制となった。
1970年代後半には、トヨタ初の前輪駆動(FF)車であるターセルとコルサも生産車種に加わり、年間生産台数はピークの1980年で80万台近くに達した。そして1984年には、生産累計1,000万台を達成。
1983年にトヨタに入社した組立部の広瀬茂樹次長は、この時の現場の雰囲気をこう振り返った。
組立部 広瀬次長
当時の現場は、活気というか勢いがありましたね。カローラが工場を支えているという雰囲気が大きかった。お客様にいいクルマをタイムリーに届けようという信念をもって、先輩たちとクルマづくりに取り組んでいました。
常に昼夜2交代勤務でフル稼働。定時になっても2、3時間の残業など、とにかく忙しかったですが、仕事が終われば先輩たちと「今日も1日頑張ったなあ!」と笑い合えていたのが思い出です。
海外でのカローラ生産も支援
大量生産のノウハウを蓄えた高岡工場は、トヨタの海外での挑戦も支えることになる。
1984年、トヨタはゼネラル・モーターズ(GM)との合弁事業としてNUMMI(ニュー・ユナイテッド・モーター・マニュファクチャリング)をアメリカに設立。海外では初となる本格的な量産拠点を構えた。
その際、高岡工場がNUMMIの親工場となり立ち上げを支援。現地の従業員を受け入れ、研修を実施。
NUMMIはその後、米国でのカローラ生産を担う拠点になった。
そして1990年代に入ると、世界の自動車史においても大きな足跡を残す、あのハイブリッド車も高岡工場でつくることに。