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豊田章男が贈るセンチュリー物語 「次の100年を日本から」

2025.10.31

新たなブランドとして立ち上がるセンチュリー。目指すのはジャパン・プライドを世界へ発信するブランド。日本から次の100年をつくる挑戦を豊田章男会長が宣言した。

3日間にわたって取り上げてきたジャパンモビリティショー(JMS)2025トヨタブランド群のスピーチ。最終回はセンチュリーを取り上げる。

10月13日のトヨタイムズ特別生放送で、最も多くの関心を集めたのが、トヨタグループのトップブランドになるセンチュリーだった。

JMSプレスデーの29日も、プレゼンテーションが始まる1時間以上前からブースには多くのメディア関係者が詰めかけ、会場は熱気に包まれていた。

トヨタ・ダイハツブランドの佐藤恒治社長、レクサスブランドのサイモン・ハンフリーズChief Branding Officerのバトンを受けて、ステージに立ったのは豊田章男会長。

約20分間の熱のこもったプレゼンの後、生配信したYouTubeのチャット欄には、次のようなコメントが寄せられた。

「TOYOTA云々ではなく、日本人として感動した」
「日本人の誇り、ワクワクするプレゼンありがとうございました」
「章男会長の魂のこもった言葉に目頭が熱くなりました。日本のプライドを未来に向けて紡いでいく覚悟を感じました。これからも応援しています」

豊田会長がスピーチの中で伝えたこと。それは、センチュリーで挑むのは「日本から『次の100年』をつくる挑戦」だということ。そして、それは自分自身の使命だということ。

日本を背負うセンチュリーは、いかにして生まれ、これからどんな存在を目指していくのか? 豊田会長による“センチュリー物語”をお届けする。

豊田章男流 センチュリー誕生の物語

豊田会長

豊田でございます。本日はご多用の中、お越しいただき、誠にありがとうございます。

センチュリー。「最高峰」にして「別格」のクルマ。このクルマは、「日本」を背負って生まれたと私は思っております。

今日は少しお時間をいただいて、私流の「センチュリー物語」をお話しさせていただきます。

「ただ自動車をつくるのではない。日本人の頭と腕で、日本に自動車工業をつくらねばならない」。これは、豊田喜一郎の言葉です。

1930年代、「日本人には自動車はつくれない」と言われた時代に、喜一郎がつくろうとしたもの、それは「トヨタ」という会社ではなく、「日本の自動車工業」だったわけです。

この志に共感した仲間とともに、喜一郎の挑戦が始まりました。

そして、トヨタ設立1年後の1938年、そこに一人の男が加わりました。こちらの映像をご覧ください。

そう言って見せたのは、トヨタ初の主査・中村健也と若き日の豊田章一郎、2人のエンジニアの子弟が紡いだ初代センチュリーの開発に至るストーリーだった。

中村健也(左)と豊田章一郎

徐々に戦後復興が進み、東京オリンピックを迎えようとしていた時代。

「今こそ世界に誇れるクルマが必要だ」「同じでないこと」「見る人に夢を与え続けるクルマにしよう」

最新技術と伝統の技を組み合せ、人の心、本質を求めて開発は進められた。

しかし、その立ち上げは困難を極めた。2人をはじめとする開発陣は、関東自動車工業* 東富士工場の独身寮に泊まり込み、残業・徹夜の日々の末に、初代センチュリーを送り出した。

*トヨタ自動車東日本の前身。2012年に、セントラル自動車、トヨタ自動車東北と統合し、トヨタ自動車東日本ができた。

そんな歴史をまとめた映像を見届けて、豊田会長は再び話し始めた。

豊田会長

センチュリーの開発を担当したのは、トヨタ初の主査、中村健也さんでした。

同じでないこと」。これがセンチュリーの開発・生産・販売のすべてにおいて一貫した中村さんの姿勢でした。

その開発がスタートしたのは1963年。トヨタがクルマづくりを始めてから30年、終戦からわずか18年、そんな時代の話です。

「何の伝統も名声もないトヨタが、世界に通用する最高峰の高級車などつくれるわけがない」。そんな声が出るのも当然のことでした。

それでも中村さんは怯みませんでした。

「伝統は後から自然にできるもの。今までにない新しい高級車をつくろう。今の高級車のアキレス腱は新しいことができないことだ」

そう言って、斬新なアイデアや革新的な技術に果敢に挑戦いたしました。

同時に、鳳凰のエンブレムには「江戸彫金」、シート生地には「西陣織」など、「日本の伝統・文化」を取り入れました。

中村さんは「同じでないもの」を生み出すために、「最新技術」と「日本の伝統・文化」の融合にこだわったのです。

こうして誕生したセンチュリーを、初代はもちろん、2代目、3代目、章一郎は、生涯の愛車として乗り続けてまいりました。

そして、時代、時代のエンジニアに対し、「高速道路を走るときの直進性だけはしっかりやってくれ」「横風対応は大丈夫か」など、毎日のように、その後部座席から改良の指示を出し続けました。

章一郎がそこまでしたクルマは、センチュリーだけでした。それは、なぜでしょうか?

中村さんが、当時「無謀」とも言われたセンチュリーの開発に取り組んだのは、なぜでしょうか?

ここからは、私の解釈になることをお許しください。

豊田会長はステージの中央で立ち止まり、戦後間もなく喜一郎が残した、ある言葉を紹介した。

豊田会長

2人の胸にあったもの。それは、終戦のわずか3カ月後に、喜一郎が立ち上げた「自動車協議会」に込めた想いだったのではないか。私はそう思っております。

この自動車協議会は、現在、私自身が会長を務めております「日本自動車会議所」の前身となる組織です。

その立ち上げに際し、喜一郎は、こう述べております。

民主主義 自動車工業国家を建設し、平和日本の再建と世界文化に寄与したい」。この言葉が私の頭から離れませんでした。

「平和日本の再建」には、「自動車工業が原動力となり、日本の人々に笑顔と平和な日常を取り戻したい」という産業報国の精神が込められております。

「世界文化への寄与」とは、「異なる国や民族が持つ文化の理解や交流を通じて、より良い社会を築くこと」。それを意味していると思います。

当時の日本に必要だったもの。それは、「日本に生きる人間としてのプライド」だったのではないでしょうか。

だからこそ、中村さんは、喜一郎の息子である章一郎とともに、日本の伝統に支えられた、世界に誇れるクルマ、世界の平和と文化の交流に寄与できるクルマをつくろうとしたのではないでしょうか。

ジャパン・プライド」。それを背負って生まれたクルマがセンチュリーだと私は思っております。

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