トヨタの各工場の歴史と、目指していく進化を紹介する連載シリーズ「トヨタ工場の継承と進化」。今回は"大衆車工場"として生まれた高岡工場の歴史を紹介。
トヨタの未来への挑戦、初代プリウス生産
1997年12月、高岡工場は歴史的な転機を迎えた。世界初の量産ハイブリッド車である初代プリウスの生産が始まったのだ。
初代プリウスの生産に高岡工場が選ばれた理由としては、当時の人気車種であるカローラⅡとターセル、コルサをつくっていた点にある。
万が一、プリウスが当初の想定よりも売れずに生産計画を下回ったとしても、工場全体の稼働率で見れば高水準を維持できると考えられたという。
ハイブリッド機構を搭載する構造上、プレスから溶接、塗装や組立までの全工程で、プリウス専用の設備・オペレーションを導入する必要があった。
そうして、“プリウス専用ライン”とも呼べる、暫定的な少量ラインが誕生。
当時、プリウス向けに塗装ロボットのプログラムを担当していた塗装成形部の川名雄二次長も、このクルマがいかに挑戦的だったかを語った。
塗装成形部 川名次長
実は、初代プリウスはデザイン的にも大きな挑戦だったんです。
車体のカラーバリエーションで空のような色がありましたが、これは当時、どのクルマにも使われたことがない色だった。
ロボットの操作も含め、この質感や色を出すのが本当に難しかった。実際に塗装してみて、デザイナーとああでもない、こうでもない、と試行錯誤していたのが思い出されます。
そうして、1997年12月に初代プリウスが無事ラインオフ。
実車が工場から運ばれていくのを見て川名次長は「自分が関わったこのクルマが、世に出ていくんだなあ」と特別な嬉しさがあったという。
そして、2000年に初代プリウスは元町工場に生産移管され、高岡工場は新たな挑戦に乗り出すことに。
品質と競争力、環境を改善する「革新ライン」
2000年代に入ると、高岡工場の生産車種は多様化。
カローラに次ぐ主要車種であったターセルが1999年に生産停止し、同年からヴィッツをはじめ、プラッツ、ファンカーゴなど、新世代のコンパクトカーを多数担うようになった。
これを契機として2006年、新たな試みが始まった。コンパクトカー生産における世界一の品質と競争力の確保、さらには環境負荷の低減を目指し、3本あるラインのうち第1ラインの改装が決まったのだ。
改装にあたっては「革新的生産技術の集大成」というコンセプトを掲げ、各工程に最新のロボットや技術を導入するとともに、ライン全体を短縮。
2007年8月、「新第1ライン」が完成する。短くなったラインでは、リードタイムが改善されただけではなく、全工程でのCO2排出量も削減。例として、塗装工程での排出CO2は改装前から15%減少した。
高岡工場だけでなくトヨタ全社で″革新ライン″と呼ばれ、生産技術の最先端として手本になった。
また、革新ラインの構築と並行して、全社的な工場再編を受けて第2・3ラインの統合も進められた。2007年10月には、第3ラインが停止。高岡工場は2ライン体制となった。
革新ライン立ち上げに際し、プレス工程での新設備導入やオペレーション構築のリーダーを務めた車体部の中山等次長は、当時についてこう語った。
車体部 中山次長
新しい設備を入れれば、現場の人の指揮系統や連携も変わらざるを得ない。文字通りゼロからオペレーションを見直し、改装前と比較して生産スピードは約2倍になりました。
ただ、スピードが上がっても不良が増えては意味がない。革新ライン稼働当初はトラブルも多かったですが、改善を重ねての品質追求、工程でつくりこむことを徹底しました。
革新ラインを携え、これまで以上の生産に乗り出そうとした高岡工場。
しかし、その矢先で大きな苦境を迎えることになった。