
今回のトヨタイムズスポーツは特別企画。それぞれの立場で"球児たちの聖地を目指した"トヨタ従業員3人が「夏の甲子園」を通じて学んだことなどを語り合った。

夏、真っ盛り。
今年もさまざまな競技が、さまざまな場所で、夏の暑さにも負けない熱戦を繰り広げている。
8月末には社会人野球の「都市対抗野球」も始まり、硬式野球部レッドクルーザーズも出場する。(初戦は8月30日)
そんなレッドクルーザーズの選手たちも数年前(数十年前?)、憧れ、時に喜び、時に涙し、目指してきた、すべての高校球児の夢の舞台、“夏の甲子園”。23日、決勝が行われ、沖縄尚学が初の頂点に立ち、19日間にわたる熱戦は幕を閉じた。
今回のトヨタイムズスポーツは、「夏の甲子園(全国高校野球選手権大会)」をテーマにした特別回。
野球やソフトボール、モータースポーツにパラスポーツ…。幅広くアスリートたちの活躍を追いかけるトヨタイムズスポーツが、高校野球の聖地「甲子園」へ(取材日は準々決勝が行われた第13日)。熱戦の余韻に浸りつつ座談会を実施した。
スピーカーは、トヨタイムズスポーツでアスリートキャスターも務める竹内大助、パリ2024パラリンピックの陸上・やり投競技で6位入賞を果たした高橋峻也選手、そして森田京之介キャスター。
日本学生野球憲章の冒頭、学生野球の基本原理には、こう書かれている。
「学生野球は教育の一環であり、平和で民主的な人類社会の形成者として必要な資質を備えた人間の育成を目的とする」
トヨタも創業以来、スポーツを人材育成の場として大切にしてきた。ネバーギブアップの精神や自分以外の誰かのために戦うこと、クルマづくりにとって大切な価値観をスポーツを通じて学び、人が育っていく。
人生において「夏の甲子園」が大きなターニングポイントになったトヨタの従業員3人。「夏の甲子園」を通じて学んだことや、その後のキャリア形成に与えた影響などを語り合った。
【ここから座談会】元高校球児の球歴は?
森田
まずは自己紹介と、甲子園との関わりみたいなものを竹内さんから行きましょうか。
竹内
高校は愛知県の中京大中京で、甲子園は2008年のセンバツに出場しています。その時は初戦敗退(記録上は2回戦)で、相手は明徳義塾(高知)です。

夏は愛知大会の準決勝で愛知啓成に負けて、夏の甲子園には出られませんでした。そこから慶應義塾大学で大学野球に移りました。
大学では主に投げ始めたのは2年春から。初勝利がノーヒットノーランです。そこから3年間で22勝して、プロ指名届けを出したけど指名されず、トヨタに入社しました。
そこからは主にリリーフで登板していて、登板はしていませんが、14年に日本選手権優勝。16年に都市対抗、翌年の17年も日本選手権で優勝しました。
森田
それが人生で初めての日本一ですか?
竹内
そうですね。日本一になって18年限りで引退。そこからは母校の慶應大学に助監督として3年間トヨタから出向していました。
森田
助監督を経てトヨタに戻ってきました。現在は?
竹内
今はトヨタイムズスポーツで、アスリート出身ということもあって、伝える仕事もしていますし、番組をつくる仕事もします。だから、つくる側、伝える側、両面からトヨタイムズに関わる仕事をしています。
森田
続いて、高橋峻也さん、お願いします。
高橋
トヨタ自動車の元町工場 統括部に所属しながら、パラ陸上のやり投をしています。
森田さんと竹内さんも応援に来てくださいましたが、パリ2024パラリンピックで6位入賞を果たすことができました。

森田
目の前で見ていました。
高橋
本当に目の前で(笑)。
高橋
野球歴は、小学校3年生から高校3年生まで。
3歳から右腕に右上肢機能障害という障害があって、その影響で今は肘が曲がりません。みなさんと比べて腕は前後半分ぐらいしか上がらないという障害があります。
その中で3年生のときに野球を始め、父親に教わり「グラブスイッチ*」という技を習得しました。
*(高橋選手の場合)左手で捕球。腕を伸ばした状態で右手でグラブを外し、左手でボールを抜き取って送球する投げ方。

ちょうど今回の夏の甲子園では、同じ障害を持っていてグラブスイッチをしている選手がいます。その子と同じようにグラブスイッチを駆使して、高校3年生のときに鳥取代表(境高校)で夏の甲子園に出場しました。
ですが初戦で明徳義塾と当たり、負けてしまいました。
そこで自分の高校野球生活…というか野球人生ですね。それが終了しました。
森田
でも夏の甲子園のグラウンドに立ったわけですね。
高橋
ライトを守っていたんですが、シートノックも受けて、ライトからホームまでの景色っていうのは、何て言うのか…、それまでの球場とは違った景色でした。ちょうどお盆休みで、ほぼ満員の観客、歓声だったんですけど、その中で片腕しか使えない自分がプレーできたっていうのは、今でも本当に大切な思い出になっています。
試合は残念ながら、あと1人ランナーが出れば代打で出場だったんですけど、ネクストバッターズサークルで野球人生を終えました。
キャプテンがホームランを打った景色と、必死に健常者の中でずっとやってきて、本当につらい経験もあったんですが、それがネクストバッターズサークルで終わった瞬間の記憶は鮮明です。
「ようやく終わった」よりも「まだできたな」、「もっとやれることがあったんじゃないか」っていう気持ちがありましたね。
森田
障害がある中で、野球を始めることも続けることも高いハードルがあったと思います。そこから甲子園出場。
何度もハードルを乗り越えてきたのに「まだやれることあったんじゃないか」って思った?
高橋
最終的には甲子園でプレーをしたい、片腕でプレーをしているところを、みんなに見てもらいたいというのが、一番の目標でした。鳥取大会では夏の甲子園を決めたときもライトを守っていたこともあって、甲子園でプレーできなかった悔しさがネクストバッターズサークルでありましたね。
森田
そこで野球はひと区切り。
高橋
大学入学と同時に愛知県に来るんですけど、そこでパラリンピックのお誘いがありました。やり投を始めたのは、そこから。
100mかやり投の選択肢があったんですけど、外野手だったこともあって肩に自信があったので、まずはやり投をしてみようと。
森田
最初やってみたときはどうでした?
高橋
全く違いました。投げるものが長い。2メーター60センチあるので、技術的にも違いますし、使う筋肉であったり体づくりも違う。すごく戸惑いました。
最初に投げたときは20メートルとか25メーターぐらいしか飛ばなくて。肘もケガをしてしまいました。

森田
大学でやり投を始めて、最初から目標はパラリンピック出場。東京大会は?
高橋
残念ながらランキングが一つ足りず…。また“バッターボックス”に立てませんでした。
森田
東京2020パラリンピックから3年経って、パリの出場権を獲得。あの舞台はどうでした?
高橋
甲子園の比じゃないくらいのプレッシャーと歓声がありました。
でも甲子園を経験して良かったなとは思っていて、(パリで)理想の動きだったり、力が発揮できたのは、夏の甲子園の経験があったからじゃないかなと思います。
「甲子園に片腕で出た選手が、パラリンピックで力を発揮できないはずはない」と言い聞かせていました。